Sly & The Family Stone / There’s A Riot Goin’ On (1971)

There’s A Riot Goin’ On

いまだに僕にとって最大の問題作。永遠の謎。偉大なる欠陥品。

この『暴動』から最初に喰らった衝撃はその音質だった。はじめて聴いたとき、オーディオが故障したんじゃないかと、冗談ではなく思った。なんだこのモコモコと曇りきった音像は。慌てて他のCDを再生してみたりした。どうも故障ではなさそうだ。とするとこの音は意図されてこうなっているのだ。こんなものが、海賊版でもなく、正規の商品として販売されていいものか。ライナーノーツに、タイトルトラックが無音である旨の注意書きがあるが、音質についても制作者の意図でございますと謳っておくべきだ。

逆にいうと、最初の印象はそれだけ。そもそもこのアルバムを聴こうと思ったきっかけはサイケへの興味からで、ファンク云々という意識はまだ無かった。かすかに心に留まったのはラストの「Thank You For Talkin' To Me America」で、あ、なんかプリンスってこの人に影響受けたのかなと思った程度だった。(つまり僕はファンクのファの字も知らずにずっとプリンスを聴いていた!)

その後何年か『暴動』は放置され、その間僕のオーディオを占拠していたのはビートルズの中期であり、ピンクフロイドのファーストであり、ドアーズのセカンドであり、トッドラングレンがプロデュースしたXTCであり、そしてもちろんプリンスの『Around The World In A Day』と『Parade』だった。それらの共通キーワードはサイケなんである。この頃スライのグレイテストヒッツ、すなわち『暴動』以前の代表曲も聴いてはいるが「なんかよくわからない」と一蹴されている。

そしてようやくファンクに目が向き(遅いよ)JBとJBズを経て、めでたく『暴動』と再会するのだが、これも「よし、次はスライだ!」という意図的なものではなく、たまたまFMでかかった「Just Like A Baby」にシビレたんである。なんて渋い音なんだ。これこそ自分の求める音に違いない。かくして埃のかぶった『暴動』を引っ張り出して、心底打ちのめされた。

もともと、音楽を肴に踊ったり騒いだりということとは無縁で、どちらかというと暗い部屋でヘッドフォンを付けて膝を抱えて音楽を楽しむというオタク気質が強い僕である。『暴動』のどこまでも沈み込んでいくようなどす暗いファンクは、一度その味を覚えたら聴くほうも際限なく沈んでいくような心地良い恐怖感に病み付きとなる。ファンク=ダンスミュージック、とはまったく思っていない僕にとって『暴動』は最高にファンクで最高にサイケ、いったいどういう構造なのか聴き込むほどに謎だ。

『Stand!』から『暴動』への、本当に同じ人間が作ったのか?という激変については、しきりに「挫折」ということが言われるが、僕はたんなるヤク中と鬱病の相乗効果だと思っている。まあどうでもいいんだけど。とにかく、ファミリーストーン名義に反しほとんど一人で録音していることで妙にモタったリズム感で全体が統一されていて、問題のマッドミックスも手伝い、アルバム全体でひとつの塊というようなもの凄い怪しい存在感を放っている。であるからして、切れ味鋭いシャープなファンクなどは一曲もない。『暴動』における、スライの脳内にうごめくリズムの断片をそのまま垂れ流してしまったようなダラしないファンクは、次作『Fresh』においてメンバーを一新したファミリーストーンによりシャープなバンドアンサンブルとして結実するのである。

と、ここまで書いて、『暴動』がデモ的/未完成品的なのは、本当にデモだったからなんじゃないかという気がしてくる。そう考えると、リズムボックスの件とかもツジツマが合うし、バンドに「ファミリー」とまで命名した男が突然一人でスタジオに籠ったことも合点がいく。ああ、そんな色眼鏡で改めて聴くと名曲中の名曲「Family Affair」なんてデモにしかきこえなくなってきた。

この文章自体どうにも収拾つかなくなってきたが、『暴動』とは、デビュー以来一貫して躁状態だったスライが突如鬱に転じた際のご乱心的一撃であり、「Spaced Cowboy」はポピュラーミュージック史上最もぶっ壊れた危ない一曲である。

だめだ、まとまらない。