はちみつぱい / センチメンタル通り (1973)

センチメンタル通り

今さらという感じですが、僕の心の一枚。無人島に持って行くのはたぶん、風街ろまんでもナイアガラムーンでもバンドワゴンでもなく、これだと思う。最近の自身の音楽活動の拠り所でもあるし、或いは、しけた日常生活をなんとかやり過ごしていれるのもこのアルバムがあるからだと言っていい。

はっぴいえんどの場合は、良くも悪くも、インテリが音楽遊びしている的なニュアンスが根底にあると思う。はちみつぱいは、というか鈴木慶一はもっと、なんていうか、マジでやってるよね。ひ弱な体当たりというか。ここにきて特にそういう慶一の音や言葉に対するスタンスに胸を打たれる。だから僕も、風街じゃなくてセンチメンタル通りの住人になりたい。

なんて言いつつ実は、それほどまでにこのアルバムが自分にとって重要な存在になったのはごく最近のこと。以前から頭の2曲は大好きだったけど。アルバムとしてはずっととっつきにくかった。ザ・バンドの良さが分かるのに5年かかったんだが、『センチメンタル通り』は15年くらいかかった。

なんでとっつきにくかったかっていうと、3曲目「ぼくの倖せ」でつまずくから。渡辺勝が歌い出すとあまりの気色悪さ/居心地悪さに耐えられずどうしてもCDを止めてしまう。だから「薬屋さん」「釣り糸」「月夜のドライヴ」など4曲目以降に収められた曲の素晴らしさに気付いたのはここ半年くらいのことです。停止ではなくスキップすればいいということにやっと気付いたというか。

あるいは、「ぼくの倖せ」の代わりにボーナス収録のシングル「君と旅行鞄」を3曲目にプログラムして聴くという高等テクもある。「君と旅行鞄」は「ぼくの倖せ」の改作、というかほぼ同じ曲なのだが慶一が歌うと何故かしみる。

で、最近あらためて強く思うのは、この世に「いい曲」などというものは存在しないということ。そもそも楽曲それ自体に良し悪しなど無く、どんなふうに演奏されどんなふうに歌われるか。またはどんな音で録音されるか。それに尽きる。まあ、当たり前のことですが。わかりやすい例でいうと、ジミヘンのリトルウイングはクラプトンがやるとクソ演歌になる。

88年のはちみつぱい再結成ライブにおける「土手の向こうに」を聴くとさらに確信する。あの、世の中にこれ以上の名曲は無いと信じていた「土手の向こうに」がちっとも良くない。新アレンジはそれほど悪いとは思わないけれど、慶一が何を思ったのか男らしく勇ましく歌ってしまっているのだ。

逆にいえば『センチメンタル通り』制作時のはちみつぱいはあまりにも神がかっている。スネアの音ひとつ決めるのにもすごい時間かけたらしいが、ほんとに素晴らしい。楽器数の多さにもかかわらずちゃんと隙間を感じるし、ドラムとベースがずっしりくるし全パートがしっかり聴こえて且つ、歌の邪魔になってない。その点においてはザ・バンドも真っ青である。極端な話、73年当時のはちみつぱいにレコーディングさせれば「思い出がいっぱい」とかでも最高にしみる一曲に仕上がるんじゃないかと冗談抜きで思う。

今僕のファンク心は、「塀の上で」のハットとスネアの間に、そして「月夜のドライヴ」の展開部の中に濃縮保存されている。